手延べ返し 5

 ある休日、男は三重県にあるナガシマスパーランドに行きたいと言い出しました。遊園地に中規模なアウトレットモールが併設され、この度さらにショッピングセンターが大きくなったのだと言います。それでふたりは遠出しようと車を走らせ、伊勢湾岸道路に乗りました。自動車専用道路は愛知県から三重へと続き、伊勢湾を跨ぐ橋は別名トリトン、灰色の海と黒い工場が橋の下に広がります。トリトンは地面よりずいぶん高い場所に架けられていますから、下に広がる工場地帯はジオラマの如く点点とした風景です。あすこに見えるタービン、今作り途中でしょう、わたしが働いているところです。デトロイトの方がもっと壮大だよと、男は景色について言語り始めました。愛知から三重に行くための道は県道が二本あり、どちらの道も日夜トラックで埋め尽くされ滞り人をやきもきさせますが、その点トリトンは道路の料金が高値のため利用者が少なく、道路は直線ばかり、それに付けて広がるいっとうの海と工場地帯ですから、運転手の気分は次第に乗って来るのが常であります。道は我がもの。隣で運転している男もずいぶん気を良くし、随分なスピードで車を走らせました。そのまま気持ち良くさせて置けば好いものを、と、一台のカローラが車線をずれて男の目の前に起こり立ったのです。先に広がる開けた視界に暗幕を下ろされ、案の定男はむとし、「俺のハリヤーに勝とうなんて」と、挑まれたと思ったのでしょうか、男は口をつむり右足に力を入れました。低いエンジン音が大きく轟き、すると一瞬体は宙に浮いて、車は速まりました。「カローラ如きが」そう言い放つと、男はたちまちに車線を変更し必死の形相で白いカローラを猛追して居ります。目にする景色がみるみる変化致して居ります。そうしていくばくも経たぬうちに、男の車はカローラを捉えるのでありました。切って落とされたデッド・ヒートは呆気なく終わってしまった。カローラは段々に後ろで小さくなって行きます。男はしてやったりの顔で「やっぱり俺のハリヤーの方が早い」と、勝利に酔いしれました。確かにハリヤーは立派なように思えました。ハリヤーはハリヤーでもすべてが最上級のカスタマイズなのだという話を、わたしは浴びるほど聞いていました。なるほどわたくしが所用して居ります事故三昧くたくたミラジーノからすれば、ひとつとっても十とっても金目の感じがして、行き届いております。黒光りする車体は高価なカブトムシの胴のように思えなくも無いが、ワックスのせいでしょうか。ワックスも高級であると言っていたのを記憶して居ります。
「俺のハリヤーが・・・」
男は未だくくくとほくそ笑んでいます。こうして、不測の事態も思惑通りにことは済んだのです。わたしはまんねん白いカローラに乗り続ける、父の小さな背中を想っていました。もう間もなく三重に着きます。(つづく・・)