手延べ返し 2

 男は愛知県の豊田市というところでひとり暮らしをして居りました。ベランダに出ると目の前には田んぼが広がり、夕べになれば蛙がよく鳴いていたのを覚えています。わたしの自宅も古墳にほど近い片田舎ですが、家のまわりの田んぼはとうの昔に埋め立てられ、そう言えば何時の頃から蛙は鳴いて居ません。男は豊田に住む男らしくトヨタ系の企業に務め、会社と自分の仕事について揚々と誇りを持って暮らして居りました。付き合って毎晩のように電話をくれますが、たいていは仕事が多忙で参って仕舞うといった具合の話です。忙しさは彼のステータスでありました。男は県内にある大学を卒業したのち今居る会社の人事部に配属され、まもなく社労士の資格を取ります。士業の知識は仕事に活かされ、職場には彼しかできぬ仕事があるらしく、また上手いことやるもんだから、若くして管理職の立場を任されました。毎夜日を跨いで仕事をして居ります。その当時会社では大がかりな合併事業が行われて居て、将来に向かって人事に関する新しいガイドラインを作るとか何とかで特に忙しいのでした。彼は言います「会社に自分しかできない仕事などない」俺が居ないと回って行かないと言う奴は、単なる奢りであるとする。ひとつ正しさがありますが、しかし彼のレゾンデートル、社会的意義はどこにあるのですか。発言は君子でありたいとする彼の願望から起こるものであり、彼自身の行動は全く異なことでありました。自分が居なくては会社は非常に困るとすることで、生きる理由を掴みましたこの男は。週の殆どをそれに割き周囲の信頼と期待を背負ったとすれば、人間はたいていそうなるのと思います。彼は忙しいという幸福のため息を洩らし、嘆息の後には常に自己にかかる存在意義の再確認と啓発と奮起がありました。「忙しくて仕方がない他の人は仕事ができない回らないそのため幹部にいちもく置かれて居る」。ジレンマとともに生き、真理を突く矛盾を人ははらみます。際限なく続く課題と向上心、努力の結果得られる達成の悦びは、彼の人生に確固不動のサイクルとして組み込まれました。忙しいさなか司法書士の勉学を始めるそうです。成果成果成果。分かり易い勲章が欲しい。悦びを獲得するに伴う苦しみ、ストレス、疲労感が己の存在を顕示し人々の感心を誘います。男の一生を持ってなされるランニング・ハイ。止まれないキャピタリズム。わたしは限り無く長い助走のごとく人生ですから、ランニング・ハイを横目に見て、遠く星にいるような気がしました。男はわたしに就いて「今まで会った女の子と違う感じがする」と言います。わたしもそうです。(つづく・・)