手延べ返し 1

 去年のいま時分はわたしにも彼氏が居りました。その人は六つばかり年上の人で、ある冬の日、わたしに付き合って見ないかと言うのでした。わたしの家から歩いて二分のところにある、三ツ屋という喫茶店での話です。三ツ屋は近所の人が憩いの場としてひとときを過ごす、自家製のケーキとパスタが美味しいと評判のお店でございました。もとはしがない古ぼけた喫茶店でしたが、あるとき地域密着型の店舗として大いなる発展を遂げ、鉄の灰かむりのような町には小ぎれいでしたから、市はこの店に街並み景観賞を遣りました。名古屋という土地柄もあって、週末の朝にもなればモーニング目当てで駐車場は溢れかえり店の中は引っ切り無し、栄えました。モーニングに行くことはめったありませんが、わたしも手元に幾らかお金があると、そこでアンチョビーときのこのパスタをお願いします。その日もそれでした。職場の中国人が殺し殺される因果めいた傷も癒え、大人しく発電所のOLと決め込んだ頃の話であるから、ひかくてき収入は安定しやすやすとパスタなんかも食べられたわけです。ほんらい外食は殆どしませんで家でとるにたらぬものを拵える毎日ですので、外で食べる機会があればなかなか口に入れたことのない味のするもの、舌を中毒させふたたび食べたいと思う感覚、家で作れぬてまひまかかったものを頂きたいと考えて居ります。作る食べるなら家ですれば好いことですから、食べた思ったとする経験の対価にお金を落としたら働いた甲斐もございましょう。濃厚な白いクリームは青くさいチーズのためもったりと、よく利いた大蒜の香りが食欲をあおってひとくちふたくち我先に行かん心持ちにさせます。料理に水気が無く味がしつこいので早いうちに飽きてきますが、しかしこの味は家で作れんのです。アンチョビーの缶詰めは、少量の割に値段が高いので、わたし買えません。我が家で生クリームのとろみとイワシの塩味が出会い、絡み、ともに踊ることはなく、それでわたしは決まってこれを頼むのです。君とだったら上手く行く気がすると男は言いました。俺と居れば絶対にしあわせになると。わたしは泥のようなパスタを無心に掴んでいたので、いったん箸を休め紙のふきんを一枚取って口を拭い、少し考えさせてとしおらしく言いました。すぐに答えはでないわ、わかったと男が肯くのを見ると、ふたたび箸を手にとり食べ戻りました。わたしと付き合いたいと? 交じり絡みダンスを? そのときわたしの心は決まっていなかったと言います。それより、今書いていてさえ食べたい。男は好かれんがため女にご馳走しました。礼を言い店を出て男から離れ、翌日わたしは交通事故にあいました。(つづく・・)